カレェちゃん

ヤンゴンにいたカレェちゃんです。最近は働いています。賃金労働に反対している。

2022/06/01と2022/06/08

2022/06/01

駅前のエクセルシオールで2時間かけて、2/3ほど残っていた『ノルウェイの森(上)』を読み終えた。村上春樹の小説は、言語化してくれてありがとうと感動を覚えるセリフもたくさんあるし、納得できない最低だと思うことも書いてある。21時前に大戸屋で夜ご飯。一人客が多くて安心する。

最寄駅から家まで歩く。背中に腕をまわして薄手のカットソーを着た腕を掴む。冬に際限なく膨らんでいった体の輪郭が、やっと正しく収まってきたような気がする。

 

2022/06/08

昨日今日で『ノルウェイの森(下)』を読み終える。

以下感想

・以前大学の講義で「緑は直子の生まれ変わりである」と聞いて、当初は読んでなかったのでへ〜としか思ってなかったが、いや、なかなか無理のある仮説では?と思った。私には全く別の人を愛する物語にしか読めないのだが、どうだろう?授業では蛍のシーンが取り上げられていたのだけど、先生もNO消ししていたように時制に無理がある。そこらへんの論文を読んでみたい。

論文を読んでないまま邪推をすると、生まれ変わり説を唱える人は「一人の人を愛する正しさ・美しさ」みたいなのを信仰しすぎているのではないだろうか?処女崇拝ならぬ童貞崇拝?ワタナベが直子と一度性交してから、彼女が死ぬまで誰とも性交しなかったように。純潔さみたいなのを大事にしている物語なので、生まれ変わり説と親和性があるのかもしれない。

 

・直子、緑、レイコら女性たちが主人公のワタナベを取り巻き、彼に(私から見ればほぼ無条件に)好意を抱き、よくわからないタイミングで性交渉をする。薄っぺらく感想を言ってしまえば、男性向け恋愛ゲームみたいな内容だった。

私は『風の歌を聴け』や『ダンス・ダンス・ダンス』『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が好きで、『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』がある部分でとても嫌いなのだが、『ノルウェイの森』は確実に後者に分類できて、気持ち悪さで言えば『海辺のカフカ』には少し負けるくらいと思う。

私の好き嫌いを改めて考えてみると、前者は「鼠と僕」「五反田くんと僕」「影と僕」と同性同士の関係性がメインに描かれている。どのキャラクターももう一人の僕的な存在で、僕と影響し合い、反射し合う鏡のような存在である。そこで描かれるのは、自分にあるもの・ないものを持つ友人に心を許し惹かれる感じや、その人にしか見せないような弱さとか、正直さであり、その繊細さが読んでいて好きだった。

 

一方後者で描かれるのは「愛する女性と僕」であり、村上春樹の女性観はとても古風で差別的で読んでいられない。まず母性に溢れた聖母のような女性と、奔放な娼婦のような女性のほぼ2パターンしか出てこない。僕を優しく包み込む女性が描かれるたび、また僕より頭が悪そうで感覚的な女性が描かれるたび、ケッとなってしまい、イライラして集中力が切れてしまう。

『ねじまき鳥クロニクル』はノモンハンを始めとする戦争の描写は、その場に居るような緊迫感があるし、井戸の中の描写は孤独に向き合う恐ろしさがとても印象に残っている。『海辺のカフカ』はナカタさんが巻き込まれる不条理なパワーと星野青年との冒険が読んでいて面白かったのだが、「女性と僕」描写が挟まれると本当に残念な内容になってしまう。

また、どちらのグループも共通して好きなのは、僕が一人ぼっちでさみしく過ごすみたいな描写で、こちらのさみしさも背負ってくれるような深いさみしさが読んでいて癒しになる。だから私はさみしい時に村上作品を読みたくなる。どの作品にも必ず他者の不在によるさみしさみたいなのは描かれているのだが、なぜか前者のグループの方が好きなのは、やはり描写として他者=同性の方が自分にはしっくりくるからなのだろう。

 

村上春樹は女性を描くのはやめて男性同士の関係性をメインに書いてほしい。